交通 |
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内堀通りを『大手門』まで走り、この交差点(T字)を日本橋方面に曲がる(飯田橋方向からきた場合は左折)。100メートルも走らないうちに左側に見える。深夜はタクシーが大量に止まっているため、反対車線でないと車がとめられないので注意。 |
噂 1 |
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関東大震災の後、この首塚に大蔵省が仮庁舎を建てようとしたが、けが人が続出し大蔵大臣の死亡も重なり中止になった。 |
噂 2 |
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戦後、GHQが駐車場にしようとブルドーザーで整地を始めたが、このブルドーザーがいきなり転倒、運転手が死亡したため計画中止。 |
メモ |
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- 平将門(たいらのまさかど)?~940
- 平安中期の武将。下総国猿島郡石井(現在の茨城県岩井市)を中心に父祖以来の在地豪族として勢力をふるう。
935年(承平5年)には父の残した領地と女性問題を巡り一族の内紛が勃発。この際、叔父や親戚の3人の子供を殺すなどの所行に及ぶが、結局938年にこの内紛を収めることに成功する。 その後将門は関東の土豪たちの争乱に積極的に介入する形で地域支配を始め、939年には上野(現群馬)、下野(現栃木)、常陸(現茨城)、武蔵(現埼玉・東京)、相模(現神奈川)をその支配下においた。 ここに至り将門は公然たる朝廷の反逆者となり、940年1月朝廷は将門鎮圧の軍を出兵させている。しかし、その軍が到着する以前に将門は、平清盛と藤原秀郷の連合軍の前に敗退し、流れ矢に当たって最期を遂げていた。 この一族の内紛に始まった、940年までの一連の紛争を「承平の乱」と呼ぶ。
将門はその死後、民間で英雄伝説として語り継がれており、その伝説は以下の通りである。
承平の乱に敗れた将門の首は京都まで送られ、都大路にさらされた。ところがその首は目を閉じることがなく、そればかりか噛みつきそうな形相でわめき続けた。さらに3日目には怪光を放ちながら夜空に舞い上がり、何処もなく飛んでいってしまったという。
この不気味な首の所在は不明だが、全国にはその首が落下したとされる「首塚」が多数存在する。
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